アイリッシュパブ

『ちょうど良いだけの量の酒が、ちょうど良いだけの時間で飲み干されたことを、その微笑みは示していた』

アイルランドは、長い長い冬と、気休め程度の夏がある極端な気候の国だ。だから、アイルランドの夏は、この極寒の地に与えられた唯一のご褒美のように、この土地に暮らす人々は心待ちにしている。

僕たちもご多分に漏れず、そのご褒美を享受するとばかりに、その夏は各地を巡った。確か、旅のきっかけはこうだ。

同じ宿に暮らすルームメイトのもとに届いた仕送りの中に1冊の本が入っていた。村上春樹著の『もし僕らの言葉がウィスキーであったなら』だ。

大量の即席麺や、日本の調味料に埋もれるように入っていたこの本を、僕たちは、長い冬の間の暇つぶしに回し読みした。

著者の村上春樹氏が、スコットランドとアイルランドの蒸留所やローカルパブを巡る旅行記なのだが、その中のタラモア・デューの一節に僕たちは魅了された。そう、背広に身を包みネクタイをしっかりと結んだ老人の話にだ。

ポケットからきっかりのコインをカウンターの上に置くと、出されたタラモア・デューを静かに口に運び、ゆっくりと時間を掛けて飲み干すと、しかるべき時刻が到来したかのごとく、にっこりと著者と微笑みを交わし、足早に店を出て行くという一節がある。

タラモア・デュー(Tullamore Dew)とは、アイルランドのタラモア地方で作られるウイスキーで、そのタラモアの“露(Dew)“を意味し、甘美な味わいを露と表現するウイスキーを、今まさにアイルランドにいる僕たちが目指すのに十分な理由のように感じられたというわけだ。

実際には、タラモアを目指したわけではなかったが、夏休みを利用して観光地をレンタカーで巡りながら、一冊の本を片手に気の利いたパブを見つけてはウイスキーにありつこうという旅は、村上春樹氏の足跡をなぞるようで、とても有意義で実に楽しいものであった。

しかし、どの町の、どのパブに行っても、あの老人が口にしたであろうタラモア・デューに出会うことは出来なかった。

僕たちが暮らしていたウエストポートという街は、アイルランドの首都ダブリンから列車で3時間半、バスだと、たっぷりと5時間は掛かる西の港町で、住んでいたのは車でさらに30分程離れた田舎町だった。

町の人たちはよく、『ウエストポートの隣町はニューヨークだ』と、本気ともジョークとも取れる話を語っていたものだが、地図を見る限りでは海を超えた隣町はニューヨークなのだから、あながち間違いでもないのだ。

この田舎町にも、1軒の古くからあるパブ、Mac Evilly(僕たちはマッキャと愛称を込めて呼んでいた)があるのだが、それまで僕たちは、ギネスばかりを飲んでいてウイスキーを飲むことはほとんどなかった。

旅から帰って来た僕たちは、いつものようにマッキャに出掛けたのだが、そこで初めてタラモア・デューを頼むことにした。

いつもの店主が、おおぶりのグラスにぞんざいに注いだウイスキーではあったが、不思議とこれまで飲んだどれよりも、ウイスキーの寛ぎを感じることが出来た。

たぶん、旅先では、高揚感からか僕たちの気持ちも幾分他所行きになっていたのだろう。中身は同じウイスキーだったかもしれないが、全く別のものに感じてしまったのかもしれない。

いつもと変わらない時間が流れるこの小さなパブで、馴染みの店主から出されるウイスキーだったからこそ、僕たちは、身体に染み入るタラモアの露をようやく感じることが出来たのだと思う。

そして、カウンターに置かれた一冊の本のタイトルに、僕たちは作者の想いを理解することが出来た。『もし僕らの言葉がウィスキーであったなら』。

おそらく、僕たちの顔もあの老人のように微笑みで満たされていたことだろう。

余談ではあるが、偶然にもタビトテで提供されるアイリッシュコーヒーのウイスキーにはこのタラモア・デューが使用されている。(※)

昨年末に訪れたタビトテで、タラモア・デューの瓶を見かけて以来、今回の話を温めていたわけだが、すっかりと季節は変わってしまった…。

寒い日に身体を温めるためにと考案されたカクテル、アイリッシュコーヒーは明るい時間から気兼ねなく飲めるとあって、アイルランドのカフェメニューでもよく見かけることが出来る。

タラモア・デューは、日本でアイリッシュパブや、ウイスキーを豊富に扱うバーなどで見かけることが出来るので、是非機会があればお試し頂きたい。

近所の酒屋などで注文すれば、手に入れることも難しくはないと思うので、村上春樹氏のこの本を片手に、ご自宅で完全に寛ぐのも一興ではないだろうか。

また季節が変わった頃に、アイリッシュコーヒーを求め旅することを楽しみに、この“唯一のご褒美”をなんとか乗り切りたいと思う。

『寒い冬に飲みたいアイリッシュコーヒー』

テキスト:垣本数馬

モノよりも、その向こう側にある物語に魅力を感じ、記憶の引き出しから、散文的な文章を綴る三流物書き。主に、“衣”を中心に、あれこれ書いています。普段は、東京・吉祥寺にて、仕立て屋を営む。1979年東京生まれ。2児の父。

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イラスト:駒津ゆはり

趣味や時々お仕事でイラストを描いています。レトロなものや手作りのもの、日本の伝統文化、鳥やファンタジーが好き。

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