
一日も、一年も、一生も。
私たちの生きる時間は、大きさも色もさまざまな巡りで溢れています。
ひとつの巡りを終えたら、次のひと巡りへ。
ひとつの巡りの中で、小さな巡りがいくつも起こっていたり。
巡りはくり返し、重なりあいながら、人生は満ちていくのでしょう。
これは、沖縄県竹富島在住の写真家・水野暁子(みずのあきこ)と、
神奈川県の西湘地域を拠点とする文筆家/映像作家・関根愛(せきねめぐみ)による
往復書簡『あきことめぐみの、旅のひとめぐり』。
旅の途上で出会う人びと、風景、すてきなもの、時間とのさまざまな巡りあいを、
言葉と写真を通してささやかに伝え合います。
竹富島のあきこさんへ
こんばんは。こちらはすっかり秋も深まりました。
夜、窓をあけていると、秋虫がちろりろ、鳴いています。道をあるけば、金木犀のかおりがどこからともなく、満ちてきます。このあたりの里山には、背のひくい柿の木がいくつも、のびのび植わっています。その実はたっぷり、色づいてきて、今にも地面におちていきそうにたわんでいます。もしニュートンが日本人だったら、あの法則は柿で見つけたでしょう。
竹富島のあたりは、天気予報をみると、まだ三十度を超えていますね。すこし遠い季節にいる、あきこさんを思います。お便り、ありがとうございました。与那国、いちど行きたい島です。あきこさんとたずねて、真理さんにお会いしたい。南の馬のやさしい瞳をじっと眺めて、縦横無尽な風に頬をあててみたい。
この前、山梨の小淵沢へいきました。会いたい人がいました。小川美代子さん、95歳。仏像を彫っていらっしゃいます。この夏、長野にいたら偶然みつけた、地域の情報誌にちいさく美代子さんのことが載っていた。脳の信号がハタと光って、「この人に会いたい!」。そうしたら、ご縁あって、お宅をたずねることができました。

ながらく横浜で、鎌倉彫の先生をしていた美代子さん。ある時、テレビで京都の仏師さんの映像を、みたんだそうです。「私、仏像を彫りたい!」すぐにぴんときて、十年間探した。ネットもない時代です。そうしたらある日、ひょんな場所で、その人が目の前にあらわれた。「あの人だ!」美代子さんはまっすぐに駆けていき、弟子入りを志願しました。
じつは私も、何年も前のことです。京都の仏師さんの映像をみました。旅先で、たまたまつけた、いつもはみないテレビでした。「仏像というのは、彫るのではない。仏さまはすでにそこにいて、私たちはそのお姿を、取り出すだけです」画面のなかの、その人が言いました。ぶわー、と鳥肌が立ちました。

世界のひみつを、ふいに耳打ちされた気分でした。やっていることは、ちがいますが、私もこんなふうな仕事をしたい。そこにあるけれど、みえはしないものを、人がそっと手にとれるような、ふれられるようなものにすること。そのためにこの体と、心を使いたい。その頃はまだ、芝居をしていました。本を書き、映像をつくるようになった今も、気持ちは変わっていません。
そんなことがあったからでしょう。美代子さんと仏像の記事をみて、「会いたい!」と思いが、ひと息に巡っていきました。私がみた映像の仏師さんは、どうやら美代子さんがみてぴんときた仏師さんの、後継者の方のようでした。人と人は、単純で素直な思いで繋がっているなあと、時折はっとします。
(次のページに続く)
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