季節と季節の境を、感じたことがあるだろうか?
四季のはっきりした日本であっても、季節と季節の境は、ゆっくりと行ったり来たりを繰り返しながら、私たちの知らない間に移り変わっていることが多い。
実は、以前に一度だけ、その瞬間を境に季節がしっかりと変わった、という体験をしたことがある。それも、日本から遠く離れた、アイルランドでのことだ。
ファッションとアイルランドをイコールで結ぶことが、どれほど乱暴なことかは、分かっているのだけれど、その時の私は、そこにいた。
実際、ファッションの歴史の中で、表舞台には出ては来ないまでも、洋服好きにとっては、しばしばアイルランドという言葉を見聞きしたことがあると思う。
それに、人口より多いと言われている羊の数からだって、毛織物や毛編み物が盛んなことが分かるはずだし、アラン諸島を起源とするアランセーターは、だれでも一度は目にしたことがあるはずだから、アイルランドも全くの蚊帳の外という訳ではないと思う。
もう一つ、ファッションの世界でアイルランドが誇るものと言えば、“最高級“として、度々紹介されることの多い、アイリッシュリネンだ。
リネンというのは、平たく言えば、麻のことなのだが、古くはエジプトのパピルスで知られる紙の様なものも、麻から出来ていたと聞くし、腐敗を防ぐ為にミイラに巻かれていた布も実は、麻から出来ているそうだ。
つまり、人間が植物の葉っぱや樹皮、動物の皮など以外で、最初に身に着けたとされる布が、麻なのだ。
高温多湿の日本でも、着物に使われていることがあるし、蒸し暑い夏の夜に麻の寝具は、非常に快適である。
そう、リネンで思い出すのが、ホテルなどで目にする「リネン庫」がある。必ずしもリネンそのものが、ベッドカバーや枕カバーに使用されているという訳ではないのだが、総称としてリネンの名が使われていることからでも、寝具との結び付きが強いことがお分かり頂けるだろう。
そもそも、リネンの最大の特長は、その吸水性と発散性にある。
リネンの生地が夏に多用されるのも、この特長からで、汗をよく吸い、空気中に発散する性質から、快適に身に着けることが出来るのだ。また、あのリネン独特のシャリ感が暑い夏に心地良いと感じるのは、私だけではないだろう。
そして、あまり知られていないことなのだが、麻は、天然繊維の中で一番強度が高いのだ。特に、水に濡れた際に強度が増す為、洗濯による劣化が少ないと言える。
ヨーロッパでは、耐久性の高いリネンクロスを、嫁入り道具として使用する習慣があり、花婿は一針一針、リネンクロスにイニシャルを刺繍し、ベッドカバーや、テーブルクロスなどを末永く代々受け継いでいくと聞く。
パリや、ロンドンでは、リネン製品だけを集めたアンティークショップが存在し、古いものでは、100年以上前のものを見かけることが出来、どれも十分に現役で使用出来るというから、リネンの耐久性の高さを、そんなところからも知ることが出来るわけだ。
と、まあ、リネンは古来より、世界中で日常的に使われている素材なのだが、特に繊維が細く均一なことから、上質とされているのが、アイルランドのリネンなのだ。
贅沢なアイリッシュリネンは、紳士服では、ジャケットや、シャツ、ポケットスクエアなどで主に使用されるのだが、着心地、使い心地ともに最上で、その素晴らしさに、いつも納得させられてしまう。
私は、ジャケットの胸ポケットには、純白のアイリッシュリネンと決めているのだが、なんと言ってもその清潔感は、他のものでは決して真似出来ないと思っている。
さて、冒頭の話の続きをお話ししよう。
私が、アイルランドに住んでいた頃のことだ。
前日まで、アイリッシュウェザーと呼ばれる、息が詰まりそうな、どんよりとした厚い雲が空一面を覆っていたにも関わらず、その日は、明け方から厚い雲が散れぢれとなり、晴れ間が現れたのだ。
アイルランドでは、海に囲まれた環境と、起伏の少ないその地形から雪は滅多に降らない。代わりに、冬の期間が非常に長い。そして、3ヵ月程度の短い夏がやってくる。
その日はもう、町中の、(いや国中と言ってもいいと思う)の家々では、衣類やら、ベッドカバーやら、テーブルクロス、カーテン、絨毯に至るまでが洗濯され、ありとあらゆるところにロープが張られ、車であろうが、郵便ポストであろうが、臨時の物干しとして駆り出される。
私が居候させてもらっていたホストの家も例外ではなく、ママさんの指示の下、家族総出で洗い上がった洗濯物をテキパキと干していく作業を繰り返していた。
ちょうど、家じゅうの布製品の類があらかた太陽の下に干され上がった頃、夏の訪れを祝福するかの様に吹いた風に、それらが一斉に舞ったのだ。そのなんとも言えない美しい光景に、私は、今のこの瞬間に季節が変わったことを感じたのだ。
今思えば、あの夏の陽に輝いていたベッドカバーやテーブルクロスは、上質の麻製品であって、もちろん、それは正真正銘のアイリッシュリネンだったわけだ。
それからというもの、私の中での夏の始まりは、アイリッシュリネンと決めている。
日本でも、薫風が香る頃、大空を舞う鯉の群れを見上げるたびに、あの時の光景がよみがえり、そろそろリネンのシャツでも引っ張り出そうかと、一人思うわけだ。
そんな、季節の始まりも悪くはないのではないだろうか。
テキスト:垣本数馬
モノよりも、その向こう側にある物語に魅力を感じ、記憶の引き出しから、散文的な文章を綴る三流物書き。主に、“衣”を中心に、あれこれ書いています。普段は、東京・吉祥寺にて、仕立て屋を営む。1979年東京生まれ。2児の父。
イラスト:駒津ゆはり
趣味や時々お仕事でイラストを描いています。レトロなものや手作りのもの、日本の伝統文化、鳥やファンタジーが好き。
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