苦労して伸びるから辛くなる
1人目は、中沢信明さん。坂城駅で待ち合わせ、中沢さんの軽トラックに乗せてもらった。坂城神社の鳥居をくぐり抜け、急な坂をぐんぐん上っていく。上信越自動車道の五里ヶ峯トンネルの上に、中沢家は代々住んでいたという。
「北日名」というその場所は、高速道路の開通によって景色が大きく変わったが、以前は神社があって坂城中からお参りや花見に来る人がいたと記録が残っている。車を降りて歩いていくと、桜のあったところには松の木が生え、横に赤いつつじが咲いていた。北日名は扇状地の扇頂にあたり、昔はこれより上部にしか人は住めなかったという。護岸技術が入ってきて千曲川の氾濫がおさえられるようになってから、人の住む場所が下がってきた。
坂城では、田んぼにできる希少な土地では米をつくり、それ以外は畑にして小麦やそばをつくった。米の生産量が少ない分、生活の知恵でおやきやそばの文化が発展した。中沢さんはご先祖が守ってきた土地について話す時、「旧坂城」という言葉を使った。現在の坂城町は1955年に旧坂城町と中之条村と南条村が合併してできたが、中沢家の土地はその旧坂城町に位置している。
そして中沢さんは北日名から見える山を指して、「山の上に鉄塔があるでしょう。その少し下のあたりに畑があるんです」と言った。再び軽トラックに乗り込み、くねくねした道を上って畑に向かった。この辺りを牛が荷車を引いていたと聞いても、すぐには信じられないような細い道だった。中沢さんが小学校低学年の頃までは養蚕が盛んだったため、一帯は桑畑だったという。それが時代とともにりんご、ぶどう畑へと移行していった。
辿り着いた中沢さんの畑は、予想していたよりもずっと勾配があった。足に力を入れていないと転がりそうな場所を、中沢さんは慣れた様子で歩いていく。日当たりの良い畑に立つと、眼下に町が広がっている。大雨などで流されないよう畝を作った畑にねずみ大根が育っていた。他にも数種類の大根が植えられていたが、ねずみ大根の葉はのこぎりのようにギザギザしているため、すぐに見分けることができた。
このような傾斜地の畑では、振興協議会の畑のように機械を使っての播種はできない。そのためシーダーテープを手で伸ばしてから土をかけていく。この斜面で行われる畝作りから草とり、収穫までを想像して「重労働じゃないですか」と言ったら、中沢さんは「そうなんだよねぇ」と優しく笑った。今は近くに住んでいるお孫さんと一緒に畑作業をすることもあるという。ちょうど2ヶ月前に種をまいたねずみ大根を抜いて見せてくれた。大根が20センチ、葉が50センチほどに成長していた。土から出たばかりの大根を見て「かわいい」と言ったのは初めてだった。下膨れていて、長いしっぽがついている。今年は播種の後に雨が少なかったせいか、去年より発芽が良くなかったという。少しだけ会うのを楽しみにしていたキスジノミハムシは見つけることができなかった。
中沢さんは子どもの頃から畑の仕事を手伝っていた。「学校から帰って親に見つかると手伝えって言われるから、帰ったらすぐにバットとグローブを持って走って家を出てね。暗くなるまで遊んでから帰ってたよ」。それでも、長いこと東京で働いてから地元に戻った中沢さんがこうして畑を続けていけるのは、体が覚えているからだという。毎年正月には、「兄弟会」という行事があって親戚が集まった。お酒と料理が一通り出た後、最後に振舞われるのが「おしぼりそば」だった。
おしぼりそばは坂城で伝わる食べ方で、辛味大根のおろしを布巾でしぼった汁に、味噌や唐辛子などの薬味を入れてそばをつける。「若いときはあんな辛くてまずいものはないって思ってた。それで駅の立ち食いそばを食べてみたら、そっちの方がうまいんだよね」。そんな辛さに今ではすっかり慣れた。坂城ではねずみ大根の味を表現するのに、辛さの後に甘みが残ることを意味する「あまもっくら」という言葉を使う。お酒との相性も良く、この味に取りつかれる人も多い。ねずみ大根が辛くなる理由は、土の成分にあると言われる。坂城以外の場所で育てても同様の辛味は出ない。「鍬で耕せば火花が散るような小石混じりの畑」が適していると伝えられているが、中沢さんも畑仕事をしていると粘る土が固まったような石が出てくることがあって、機械ではうまく耕せないという。「大根が苦労しながら伸びるから辛くなるような気がするね」。中沢さんの言葉には説得力があった。
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