2021年1月、京都府南丹市某所にて小屋を借りる契約がスタートした。田舎暮らしと木工房を両立させるための小屋で、家賃は月5千円という格安物件である。だが、小屋はただ週末の別荘として使われ、一年半が経っても工房移転は果たされなかった。
初めての冬は薪ストーブの火を見つめ茶をすすっているうちに終わった。春は春で縁側に腰かけ茶をすする。夏は暑すぎてクーラー無しでは話にならない。秋になればまた縁側に腰かけ茶をすする。そして再び冬が来て薪ストーブの火を見つめる。
そのようにして、「工房移転はそのうち」と茶をすすっているだけで季節がひとめぐりし、二度目の夏を迎えようとしていた。
中島敦は『山月記』で、「人生は何事もなさぬにはあまりにも長いが、何事かをなすにはあまりにも短い。」と記している。だが田舎の縁側で茶をすすっていると、人生は何事かをなさずともあまりに短いらしい。
なぜここまで移転を延ばし続けたのか。それは単純に遠くて不便になるからだ。これまでの木工と漆工房との移動距離は徒歩10分。それが車で1時間半の距離になる。どう考えても大変ではないか。もちろんそれを承知で契約した物件なのだが。
「移転はまた涼しくなってから考えればいいか。」と思っていたのだが、弟子入り志願の青年・アツユキが現れたことで事態は動く。
アツユキは大阪在住で、主な特徴は天然パーマと繊細な気遣いである。たとえばマイカーに誰かを乗せた時、流す曲が独りよがりにならないよう誰しもがある程度楽しめる無難な曲を集めた「無難プレイリスト」なるものを常備しているほどの気遣い人である。
そして包み隠さず申し上げると彼は、過去に私が不義理をした「柴田明 被害者の会」の一人である。それは2019年に遡る。
彼は伝統工芸に興味があり、大学でもそれに類する事を学んでいた。卒業前にとあるビジネスコンテストのようなものに参加し、就職せず起業を視野に入れてアイデアの実現に取り組む。だが計画は頓挫し、残されたのはフリーターという地位だけだった。
その頃に私と出会い、心折れていたアツユキは私の仕事を手伝えないかと申し出た。断ってはいたのだが、何度目かの申し出の際にふと、「乾漆(かんしつ)にちょっと興味出てきたから、それやったら一緒にやってもらおうかな。」と漏らしたのがいけなかった。
乾漆とは、「木地を使わない漆器」とでも言おうか。漆器はたいてい木を削って形を作り、その上から漆を塗っていくのだが、乾漆は芯材として木を使わない。麻布など柔らかいものを漆で固めて形状を作る。
自由度の高さに魅力を感じ、アツユキに共同開発を持ちかけたところ彼は大いに喜んでいた。だが1週間も経たないうちに私の乾漆への興味は失われていた。
アツユキから「乾漆、いつからやりますか?」とのメッセージを受信したのだが、断りの言い訳が思い浮かばないので返信せずに様子を見る。
しばらくすると世間では新型コロナウイルス流行に伴う緊急事態宣言が発令された。それに乗じて、「うちの父は基礎疾患があるので接触は控えましょう。」という日本政府公認の理由で当座をしのぐ事に成功した。
(次のページに続く)
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