約2か月後、宣言解除のニュース速報が流れるとほぼ同時であった。それを待ち構えていたとしか思えない早さでメールが届く。
「解除されましたよ。乾漆、いつからやりますか?」
送信者は言うまでもない。私は彼の執念深さを感じさせる連絡に背筋が寒くなった。断りの理由を考えるも、政府の後ろ盾を失った私に有効な策は思い浮かばなかった。
こうなったら素直に気持ちを打ち明けよう。それが私からのせめてもの誠意だ。そして、「ごめん。乾漆に興味なくなったわ。」と別れを切り出すメールを送る。するとタメ口の返信があって数通のやり取りをしたのち、「とりあえず仕事場まで行きます。」という連絡が来てその日は終わった。
強い西日が差し込む五月の夕方。アツユキがオフロードバイクで仕事場までやってきた。話し合いは二階の住居部分で持たれたのだが、案内するなり彼はどこか演技めいた口調で話し始めた。
「あ~、暑い。暑いっすねぇ。上着脱いでもいいですか?」と。
私は不義理によって刃物で刺される可能性を考えていたのだが、まさかそのまま「あ~、暑いっすねぇ。シャツも脱いでいいですか?ズボンも脱いでいいですか?」と言い出すのではないかと内心で震えた。
私は高校生の時にア〇リカの軍人を名乗る男に股間をモミモミされて以来、男性に対して一定の警戒心を宿すようになったのだ。
アツユキがもったいぶって脱いだジャケットの下から現れたのは、汗ばみで若干の濃淡が出来ているよれたグレーのTシャツだった。凶器でも変態でもなかったにせよ、十分に部屋から退散したくなるものではあった。
そのTシャツの胸部には白いガムテープが横向きに貼られている。そこにはマジックで手書きしたのであろう「LOVE 乾漆」という文字が刻まれていた。
それで私の心が動かされるわけもなく、文字の事にはあまり触れずにお引き取り願った。オフロードバイクに乗って去るアツユキの背中はひどくうなだれて見えた。寄る辺なき者が醸し出す悲しい後ろ姿を見送ったあと、私は天を仰いで祈った。
「どうか彼が相棒のオフロードバイクとともに人生という名の未舗装路を乗りこなせますように」と。そして念のため、夜はしっかり戸締りするようになった。
入念な戸締りのおかげか、夜間に襲撃をうけることなく平穏な日々が過ぎた3年後の2022年。とある事情で私たちは再会を果たした。工房移転用の小屋を借りてから2年目の夏の事である。
例の不義理の後、彼は「柴田明 被害者の会」の会員として法廷で争うことも考えたり考えなかったりしながら就職したという。そして近いうちに退職するらしい。
アツユキは再び弟子の話を持ち出してきた。私は断ったのだが、「工房の移転、手伝いますから。草刈りも手伝いますから。」と言われて気持ちが揺らいだ。
弟子は面倒だが、なにかきっかけがないと移転できる気がしなかったからだ。夏の草刈りの大変さを痛感していたのも大きい。
私は悩みに悩んだ結果、アツユキを弟子として受け入れ、京都の五山に送り火が灯される2022年8月16日に工房を移転させることにした。
つづく
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イラスト:SORRY.
和菓子好きイラストレーター。デザイン会社での経験を経て、現在はフリーランスとして活動中。ショップやラジオ番組のロゴデザイン、雑誌の挿絵などを制作。
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写真:其田有輝也
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