朝霧がたちこめ、雨がしとしと降っている自然豊かな里山に、ふるさとの伝統産業を受け継いだ若き職人の手漉き和紙工房がある。職人の名前は、大西満王(おおにしまお)さん。24歳の青年だ。
「お札と切手以外の紙製品はすべて作ることができる」といわれる紙の町、愛媛県四国中央市。その山間部にある新宮町で多羅富來和紙(たらふくわし)という工房をかまえ伊予手漉き和紙の技術を継承している。
今回は、そんな里山で日々奮闘する若き職人と、味わい深い手漉き和紙の世界を紹介したいと思う。
朝霧がたちこめ、雨がしとしと降っている自然豊かな里山に、ふるさとの伝統産業を受け継いだ若き職人の手漉き和紙工房がある。職人の名前は、大西満王(おおにしまお)さん。24歳の青年だ。
「お札と切手以外の紙製品はすべて作ることができる」といわれる紙の町、愛媛県四国中央市。その山間部にある新宮町で多羅富來和紙(たらふくわし)という工房をかまえ伊予手漉き和紙の技術を継承している。
今回は、そんな里山で日々奮闘する若き職人と、味わい深い手漉き和紙の世界を紹介したいと思う。
四国中央市の手漉き和紙の歴史は比較的新しく、今から約250年前の江戸時代から始まったといわれている。和紙の原料であるコウゾやミツマタという植物が山奥の谷山で自生していたことから、その周辺の里山で細々と手漉きが行われていた。
その後、幕末~明治にかけて、農家の副業として手漉きを勧められたことがきっかけとなり、多くの人々に手漉きの技術が広がった。
明治44年に手漉きの黄金期を迎えたが、大正時代になると外国産の機械が入り、機械漉きがメインとなっていく。戦後、機械漉きの生産が拡大されると共に、手漉きは衰退していった。当時700軒ほどあった手漉き和紙の工房も現在では、満王さんの多羅富來和紙を含め3軒に減少している。
多羅富來和紙で行われている手漉き和紙ができるまでの工程を簡単に説明していきたいと思う。まずは、原料を選ぶところから始まる。ミツマタ、ガンピ、木材パルプ、稲わらなど、それぞれの原料の特性を見極めて、どんな紙を製作するかによって調製をしていく。
選んだ原料は、沸騰した大釜で約2時間煮て柔らかくし、さらに細かい繊維にしていくために、ビーターという機械に入れる。ここまでが下準備だ。
漉き舟に、水とトロロアオイ(糊になるもの)と繊維状にした原料を入れてかき混ぜて、流し漉きという技法を使いながら、目標の厚みになるまで、1枚ずつ紙を漉いていく。
何度もその工程を繰り返し、できあがったら重石をのせて一晩かけてじっくりと脱水する。ひとつひとつの作業がとても小気味好く、かつ丁寧に行われていた。
昔は分業制だった作業を、今は職人さんが1人で行っているという。だいたい1日に300枚ほど紙を漉き、検品していくと、最終的に製品にできるのは約250枚だそうだ。
「紙漉き」は、昔から冬の季語にあたる言葉だと言われている。冬場の冷たくて澄んだ水で手漉きを行うとトロロアオイが粘り、良い紙ができるそうだ。
(次のページに続く)
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