日本国内で使用されている固形墨の9割以上が奈良県で作られていることをご存じでしょうか。寒さが厳しい冬の間、職人の手によりひとつひとつ丁寧に製作されているのです。身近なようでいて分からないことも多い、墨の世界を覗いてみましょう。
墨のこれまで
製墨の歴史を辿ると『日本書紀』推古天皇18年(610年)の条(注1)に行き着きます。高句麗の僧曇微(どんちょう)が墨を伝えたことが記されており、文献上は初出であるとされています。
この記述から1400年もの昔に曇微によって墨が日本へともたらされたと考えられているようです。しかし実際のところ、墨の使用はより古いはずです。
三重県松阪市(旧・嬉野町)の貝蔵遺跡からは、3世紀初頭の墨書土器が出土しています。土器に描かれているものは墨と筆を用いていると、調査で明かになりました。つまり墨自体は曇微より早く、2~3世紀初頭には日本にあったのではないかと考えられます。曇微の場合は、良質な製法を高句麗から学んだということではないでしょうか。
奈良における墨
時代を経て、室町時代に興福寺二諦坊(にたいぼう)で灯明の煤をもって墨が作られはじめた(注2)とされます。さらに安土桃山時代には松井道珍という人物が、「南都墨」の評判を高め事業としての基礎を高めます。
江戸時代に入るとより一層、奈良における製墨は盛んとなり『奈良曝(注3)』の「諸職名匠」には9軒の官名受領の墨屋が記されています。全盛期にはその数は54軒にも上ったといわれ、大変な人気だったのでしょう。令和4年(2022年)現在、奈良製墨組合には9社の企業が属し丹誠を尽くした墨を生み出しています。
古梅園の歴史
夏目漱石が“墨の香や 奈良の都の 古梅園”と詠んだことでも知られる、日本最古の製墨会社が奈良の古梅園です。先に名前が出てきました、松井道珍が開き基礎を築きました。店の名は庭の一角にあった梅の古木にちなんで付けたものであると言われており、今も敷地内には梅の木(当時の梅ではない)が咲き誇っています。
道珍は当時はまだ洗練されていなかった製墨法を研究開発したとされ、その功により官名を賜りました。以降、現在の16代目まで脈々とその技術は受け継がれています。
墨作りの方法は、大きく分けて2つ。菜種や胡麻などの油を燃やして造る「油煙墨」と、松脂を燃やして造る「松煙墨」です。現在は油煙墨が主流となっています。そして煤を採るところから丁寧に墨を製造しているのは、全国でも今や古梅園だけです。じっくりと作り上げられるその過程を、以下に紹介していきます。
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