古代の日本人の食文化
飛鳥時代の頃から明治に入るまで、日本人は主に野菜や豆、魚介類などを食べており、公的に肉を食べることが禁じられていました。日本は農耕文化なので牛や馬は大切な労働力であったためです。しかし貧しい民衆の間では、鹿や猪などの獣肉が食べられており、牛肉もこっそりと食されるようになったと言われています。
料理技術が向上した江戸時代
全国の村々で盛んに伊勢参詣が行われるようになり、農閑期には順番で伊勢参りに出かけました。この旅は、お蔭参りに主な目的があるのですが、同時に道中の宿の料理や伊勢でのご馳走が楽しみでもありました。このように各地の料理に接することは、地方の料理技術の向上にも大いに役立ったと言われています。しかし肉料理に関しては一般的に禁忌が高まり浸透しない時代でした。
この頃から松阪牛の歴史は始まります。但馬地方の雌牛は温和でよく働くため、規制や税負担の無い紀州に移入してある程度まで大きくしてから農作業を教え、その牛を松阪周辺の人々が役牛として購入し、家族の一員として大切に飼われました。これが松阪牛の起源です。
精肉店・丸賢の自社牧場
写真は創業60年以上になる精肉店の自社牧場。澄んだ空気ときれいな水に恵まれた環境。清潔な牛舎で厳選された飼料による長期肥育が行われています。
幕末から明治時代の日本食
幕末の頃からヨーロッパとの接触が拡大するとともに、国家主導で牛肉等の畜肉を食べる文化がだんだんと日本に広まっていきました。明治4年、5年には文明開化が一気に進み、一種の西洋ブームが起こりました。『安愚楽鍋(※1)』が評判を呼ぶなど、「牛鍋喰わぬは開化せぬ奴(※2)」という言葉が流行しました。牛肉の消費量は明治10年以降から末年までの間に実に8倍近く伸びたと言われます。
この頃の松阪牛は、まだ肉牛として肥育されていたわけではなく、農作業に使った後、1年ほど休ませて太らせた牛が肉用になっていました。ただ長期間に渡り大切に育てられた松阪の牛は、他の牛にはない独特の旨味を持っていると評判になりました。松阪近隣から集めた100頭以上の牛を連れて徒歩で東京まで売りに行った牛追い道中が有名です。
日本の食文化の到達点
日本食は昭和初期には、一つの完成に達します。美食家として知られる北大路魯山人は、料理だけでなく、その先の盛る器や食事空間のしつらえにもこだわり、美食の提供に最善を尽くしました。
牛肉も食材として、本格的な日本料理に使われるようになりました。松阪牛は昭和10年に東京で行なわれた全国肉用牛畜産博覧会で名誉賞を受賞したことで全国的にその名が知られるようになります。
しかし、その後の戦争により、新たな展開は戦後復興後となることを余儀なくされました。同様に松阪牛の肉牛としての本格的な肥育が始まったのも戦後になります。
※1 安愚楽鍋
仮名垣魯文の滑稽小説。牛鍋店に出入りする客を描き、文明開化期の風俗を風刺しました。
※2 牛鍋喰わぬは開化せぬ奴
牛鍋とは、すき焼きのこと。関東では当時、すき焼きのことを牛鍋と呼んでいました。牛鍋を食べない人は時代遅れと言われていたのです。
世界中のシェフが絶賛する銘柄牛へ
近年、日本食は世界的なブームと言われユネスコの無形文化遺産にも登録されました。なかでも和牛は外国人からの人気も非常に高く、「すき焼き」「しゃぶしゃぶ」は代表的な日本料理として認知されています。
現在の松阪牛は、日本三大和牛の一つであり、伊勢神宮にも奉納されるほどの銘柄牛になりました。その高い品質は肉の芸術品と呼ばれ、海外でも絶大な評価を受けています。これは、松阪牛が持つ優れた資質と代々受け継がれた牛に対する飼い主の愛情と環境がなければ実現できないものです。
松阪牛は個体識別番号によって管理され、限定した地域の牧場で1頭1頭大切に育てられています。三重県内に複数の自社牧場を所有する丸賢では、毎日、牛と対話をしながら厳選された飼料による長期肥育が行われています。薬剤師でもある牧場主によって考案された保存料不使用のソーセージやA4ランク以上の松阪牛のみを使用したコンビーフなども製造しています。
弾力のある食感、口に入れたときに舌の上で溶けるような甘味のある脂肪は、一度食べると虜になるほどの美味しさです。今では世界中の高級レストランが使いたがる食材となり海外のセレブたちにも愛されています。
松阪牛 すき焼き・しゃぶしゃぶ用
霜降りの脂が一番美味しく味わえる、すき焼き・しゃぶしゃぶ用のお肉。
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松阪牛と野菜入りソーセージ
薬剤師でもある牧場主が栄養素を考えて提案する保存料不使用のソーセージ。
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松阪牛コンビーフ
贅沢にもA4ランク以上の松阪牛のみを使用して作られたコンビーフ。
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