江戸時代から続くほうき作り
江戸時代慶応年間から松本市の野溝地区を中心に、塩尻市、安曇野市周辺にかけて盛んに行われていたほうき作り。最盛期は100軒以上の農家が原料を生産し、農閑期の副業として、ほうきを作っていたとされる。それから150年もの歳月が流れ、掃除機やじゅうたんの普及とともにほうきの需要は減少。いまではほうきを作る職人は全国に数えるほどしかいない。
今回は、伝統を守りながらも枠にとらわれず、ほうき作りに新たな可能性を見出す「米澤ほうき工房」の米澤資修(もとなお)さんにお話を聞いた。
反対されたほうき作りの道
資修さんは、祖父が始めた米澤ほうき工房の3代目。子どもの頃から家業を継ぐことを意識していたが、「先が無い仕事を継ぐな」と両親に言われ、製造業や酒造メーカーに勤めた。そんなある時、転機が訪れる。
「実家に帰ると、松本市の手仕事イベントに招待された両親が、出店の準備をしていたんです。ところがプライスカードさえ用意していない。心配になって、当日手伝いに行きました」。店番をしていると、若い女性が立ち止まった。その反応は意外なものだった。
「かわいい!」
その瞬間に、資修さんはほうき作りの仕事に可能性を感じたという。「女子の『かわいい』は絶対ですから」。
もちろん両親は反対した。安定した収入を得られる会社員を辞めて、どうしてわざわざ風前の灯火のような職人の世界に? それでも資修さんの意志は固かった。2011年に酒造メーカーを退職し、ほうき作りに専念することに。
とはいえ、ほうき作りは素人。それまで作ったことは一度もなく、工房をのぞくことさえなかった。工房では、父の勝義さんと母の純子さんが一緒に作業するが、作り方を教えたのは純子さんだった。資修さんは予想以上の早さで技術を習得していったという。元々手先が器用だったのか?
「器用そうに見えますか? とんでもない。おれにあるのは、運と勢いだけ」。そう気さくに話す資修さんは、寡黙な職人のイメージとはまるで違う。一方で、ストイックで気骨ある一面も言葉の端々から感じられる。
父の勝義さんは「何しろ根気の要る作業です。私たちは疲れて作業を止めようとしても、資修は絶対にやめない」。純子さんは「頑固者なんですね」と笑う。
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