日本の伝統筆

思い返せば、受験の時に初めて竹軸の彩色筆を触り、芸大に入ろうと必死で絵を描き始めたように記憶しています。

その後、プロの水彩画家になってからは外国製の高額な水彩筆も使ったりしました。近年、水彩画教室を持つようになり生徒に筆を紹介する際、外国製は少々高額であったため、生徒用に品質がよく手頃な筆を探すことになりました。そこで行き着いたのが、日本の伝統の筆です。

水彩筆と言えば、有名な外国製の筆はいくつかありますが、とても高額であり、ビギナーにはちょっと敷居が高いように感じます。日本の京都、広島、江戸の筆は、100年の歴史があり、私の場合京都の筆をずっと使っていました。

元々、人形や染物などの職人さん向けに作っていた筆であったこともあり、高額にするわけにもいかず、よい筆が手頃なお値段で販売されていたのです。それらの中から、水彩筆として使えそうなものを5本選び水彩画教室の生徒用ビギナーセットにしたところ、とても好評でした。

素材となる竹は、水に強く、水彩にはもってこいです。木軸に塗装した筆は、やがて塗装が割れてはがれてくることも多く、竹の素晴らしさに改めて気付かされました。

とても好評ではありましたが、時すでに遅し。時代の流れから、次々と伝統の筆は消滅していきました。日本の筆の歴史がひとつずつ、ゆっくりと幕を閉じようとしていたのです。そして、ついに昨年、京都の老舗筆屋が閉店してしまいました。

日本の伝統筆

日本の伝統筆が危機状態に陥っている理由はいくつかあります。

一つ目の原因は、職人さんの高齢化と跡継ぎがいないこと。筆を作る職人さんは育つのに10年以上とも言われています。つまり一人前になるのにとても時間がかかるのです。

ひとつひとつ手作業ということは、同じ材料で作っても、作り手により、筆の出来栄えに微妙な差が出てしまいます。品質を一定に保つことがとても難しいのです。熟練した職人さんの作る筆は、画家にとっても入手困難な、とても貴重な筆となります。

二つ目の原因は、原料となる原毛がなくなっていることです。日本の野生動物は害獣であっても捕獲の禁止となり、日本狸などの動物の毛はかなり前から手に入らなくなりました。

また、イメージダウンのためか中国も動物を捕獲したり加工しなくなり、原料となる北京狸も輸入できなくなりました。これによって、どこの筆屋においても、原毛は在庫限りであらたに手に入らなくなりました。それは化粧筆も同様です。そして、例え入って来たとしても、原毛が高騰しているため、筆も高騰していくのです。

三つ目の原因は、原料となる竹軸を取りに行く人が少なくなったことです。大変低い賃金であるため、竹林はあれど、竹軸用の竹を取りに行ってくれる人がいないのです。

既に、竹も多くは外国製になっているようです。竹は水に強く、また耐久性もあるため、筆の原料としては理想的なのです。木軸にしたとしても、やはり職人不足で、作る方法はないのが現状です。

これらは、近い将来ではなく、もう既に始まっている話です。そして、なんら手が打たれないまま、日本の伝統筆は、消えていく運命にあります。化粧筆も同様です。外国製の筆も、やがて同じ運命をたどるでしょう。

日本の伝統筆

なぜ、ナイロンなどの人工筆では駄目なのか。それは、動物の毛が持っているキューティクルが、筆のしなやかさを作っていて、絶妙な曲線を描くことができるからです。

絵を描く時、急に絵の具が落ちると、紙面にぼたりと絵の具が落ちます。筆はたっぷりと絵の具を含み、長い時間描けることが理想ですが、突然ぼたりと絵の具が紙面に落ちては、絵が台無しになってしまいます。

矛盾しますが、画家としてはゆっくりと絵の具は落ちて欲しいのです。たっぷりと絵の具を蓄え、必要なだけ先端から絵の具が出てくれる絶妙な筆は画家にとってありがたい名筆です。

同じ太さの線を、擦れないで長い時間描けたり、また、鉛筆の線からはみださないで塗ることができたりの技術は、ビギナーからプロまで必要なテクニックです。そういった意味でも、日本の伝統の筆は芸術や文化の土台を支えてきたと思います。

私自身、現在はまだ作り続けられている貴重な筆のみを使用して絵を描いています。太くて先端の切れ味のある筆は、1本で絵が描けてしまいます。

この危機を察知した画家は、日本の伝統筆をできるだけ買って、生涯描けるだけの筆を既に蓄えているかもしれません。つまり、日本の伝統的な技を駆使して描く名画も、あとわずかしか出てこないのかもしれないのです。

アーチストもまた、筆と運命を共にするのか、または、筆に頼らない描き方に変えていくのか、やがて選択を迫られていくでしょう。最近は、手で描く人や、または、エアーブラシで描く等、表現は様々になりました。

日本の絵は、線の芸術ともいわれます。それを支えていた日本の伝統筆の消滅と共に、日本のアートがどう変わっていくのか。自分自身も含め、考えていく時が、ついにやって来たのかもしれません。

テキスト:柘植彩子

名古屋市出身。名古屋芸術大学で日本画を学び、卒業後、水彩画家に転身する。オーガニックライフを続ける傍ら、有機野菜や薬用植物などを描き続け、やがて企業の広告や会報誌の表紙絵を数多く手掛けるようになる。2007年にはJIAイラストレーション協会よりIllustrator of the year賞を受賞。2016年2月に画集「透明水彩植物からのメッセージ」が出版された。

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